CCCDに対するスタンス


大変長文になりますが、このサイトに来て頂いている方にはどうしても読んで欲しいと思っています。
この問題は音楽業界に関する問題だけでなく、人と人との繋がりという意味で、本質を考える非常に興味深い内容を含んでいます。
どうか、お付き合いくださいませんか。

2002年頃から既に賛否両論ある問題なのでとうにご存知の方も多いかもしれません。
ただ、僕はこのサイトの趣旨に則って、自分自身のスタンスを、たとえ遅かろうと格好悪かろうと、このサイトでお伝えする必要があると感じた次第です。

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この問題について僕ももっと早くから、深く、考えているべきでした。
今、僕は聴きたい音楽についてはきちんとした対価を払って、聴いています。
(「きちんとした対価」というのは、ここではひとまずお店での売値のことです。)
それを自分のPCに取り込んで、iPodに落とし、持ち歩く。

最早、生活の一部です。
音楽というものの存在がいかに自分に対して色々なものを与えてくれているか、僕は知っています。
ですから、それら素晴らしい価値を提供してくれる商品に対して、対価を払います。
時に、お金で買えない価値を提供してくれる作品もあれば、対価に相当しない作品だなあ...と思えるものもあります。

どうか、早とちりしないでください。
僕は、今から、ここで、「CD聴きたいなら自分の金で買え!」なんて結論を言いたいのではない。

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気づいたのは、2004年(つまり今年)の3月。
あるアーティストのCDがPCに取り込めない( = iPodに取り込めない)ことに端を発しました。
お店では、よく「レーベルゲートCD」というシールの貼られたCDを目にしていましたし、当たり前のように購入もしていました。
別に、コピーできない仕組にされているからといって僕の普段の「ひびのおんがく」生活に全く支障がなかったからです。
CDプレーヤーで聴き、PCに落とし、iPodで聴けていたのです。

支障がなかったのは、しかし、それは単に無知なだけだったからです。

新聞という媒体に明らかに淘汰の影がついてまわっているように。
CDという媒体にも、似たような影が現れ始めました。
悪い意味で、世の中和剤として、CCCD(この単語については その2 でご説明します)は音楽業界に投入されたのです。

音楽業界?
いや、音楽業界に投入されただけではないのです。
人と人との繋がりを希薄にさせたという点で、このCCCDの存在はとても邪悪だ。
僕は断言します。
(CCCDが邪悪なのじゃなくて、CCCDが存在するということが、邪悪です。)

それはあたかもディズニーランドがいつも綺麗でゴミがないことや、
携帯電話のデジタルカメラは撮影時に必ず音が鳴るようになっていることとも同じ意味を持ちますが、レベルが違う。

だから、どうか、みんなで考えませんか。
CCCDに対する( = 人と人との繋がりに対する)自分の意見を持って欲しいのです。
遅すぎるということは、ありません。





CCCDってご存知ですか。聞いたことありませんか。
いわゆるコピーコントロールCDのことをCCCD(Copy Control CD)と書いたりします。
コピーコントロールされている、というのはどういうことかというと、具体的にはパソコンのCDROMドライブで読み取れないようにしているという意味です。

このコピーコントロールCDは、音楽メーカーによって名称がマチマチで(方式が独自だったりして)、レーベルゲートCDなどと言ったりもします。
(言い方はここでは、どうでもいいです。)

重要なのは、このコピーコントロールされたCD(以下、CCCDに戻します)は、CDではないということです。
今まで世に出回ってきたCDと、CDプレーヤー。
これらは、もっと正式に言うと、コンパクトディスクという規格を持つメディアと、それを再生するためのプレーヤーです。

CC「CD」はCDとは言われているけれども「コンパクトディスク」という規格に則ったメディアでは「ない」のです。
だから実際にはこのメディアを聴く為にはCCCDプレーヤーという機械が必要なはずなのです。
しかし、そんな機械は売り出されてませんね。
だから、CCCDには、遠まわしに「(CDプレーヤーで)再生できなくても保証しないのゴメンね」と書かれています。

つまり、パソコンで読み取らせないようにするために、故意に規格外の処理を施している(故意にエラーを埋め込んでいる)、ということです。
具体的には、詳しくは述べませんが、わざと読み取りにくくしています。
CDプレーヤーは通常のCDよりも多くのエラー訂正を必要としてしまいますので、結果的にCDプレーヤーの寿命が早まったり、ひどいときは読み取れない、あるいは故障の原因になったりすることもあるようです。
かつ、音質が(多かれ少なかれ)低下します。

これらのCCCDが各音楽メーカーで採用されるに至った理由。
それは著作権の保護、という名の売り上げ回復です。
売り上げが落ちた原因を、違法コピーに求めた結果なのです。

ディズニーランドを運営している会社から、我々消費者はこう思われているわけです。
お客様は必ずゴミをポイ捨てする人達だという前提を基に、たくさん清掃員を配置し、常にゴミの落ちていない状態を提供せねばならない、と。

携帯電話の規格を作っている人達から、我々消費者はこう思われているわけです。
使用者は盗撮などの悪用をするという前提の基に、携帯電話でカメラ撮影するときには必ず音が鳴るようにしよう、と。

音楽メーカーから、我々消費者はこう思われているわけです。
購入者は必ず違法コピーをする人達だという前提を基に、規格外になって再生保証はできないが、CCCDで音楽を提供しよう、と。





金儲けに走る企業が、違法コピーの蔓延を見て、損した気分になってCCCDを導入するに至った過程は(恐らく)前述のとおりです。
しかし、裏事情はさておき、彼らの建前は「著作権の保護」です。
著作者のために俺たちは違法コピーされないように頑張ってやってるんだ、というスタンスです。

では一方の著作者(アーティスト達のことです)がこのCCCDに対してどう考えているのかが知りたくなります。
これを知ることができれば、アーティスト達の、音楽というものに対する考え方が分かるのですが..

現在、僕が知りうる限り、CCCDに対する考え方をWEB上で公表している(あるいは発信していた)アーティストは数える程です。
その他の多くのアーティストは、この件について口を閉ざしたままです。
何故か?

簡単な話です。音楽メーカーに首根っこを掴まれているからです。
文句があるなら代わりはいくらでもいるんだぞ、と、そういうことなのでしょう。
音楽雑誌もこのことに対してはタブーのように口を閉ざしています。

例として、アジカンのゴッチ、いや正確に書きましょう。
今、SME(Sony Music Entertainment)に所属している、日の出の勢いのアーティスト、ASIAN KUNG-FU GENERATION
SMEからすれば、これから金蔓になるだろう期待の星です(わざとイヤミ風に書いてます)。
その作詞・作曲担当の後藤正文。

2003/07/22の彼の日記が、最終的な、CCCDに対する彼の結論です。
(以降、CCCDに関する記述はありません)

恐らく殆どのアーティストがこういうジレンマ(というか結論)を持っているのだと思います。
くるりの岸田くんもおおよそ似たような内容です。
CCCDで出さざるを得ない、と。

そしてメーカーに反旗を翻せる(CDかCCCDかを自分の意思で選択できる)のは一握りのアーティスト達、奥田民生、山下達郎、宇多田ヒカルといった人達。
つまり逆にメーカーが言いなりにならざるを得ない人達。


あるアーティストはこう思っているかもしれません。
CCCDって何か知らないけれども、気づいたら自分の音楽はCCCDってやつで売られていたよ。

あるアーティストはこう思っているかもしれません。
CCCDにして音質が落ちようとも、僕らの音楽を皆に届けたい。

あるアーティストはこう思っているかもしれません。
音質的に欠陥があるいかなる要素も認めないし、自分の作品も絶対に全作品CCCDにはしない。

あるアーティストはこう思っているかもしれません。
メシを食っていくためなら、メーカーの言うことを飲もう。

あるアーティストはこう思っているかもしれません。

音楽ってもっとフリーで、本当の意味でフリーで、誰がどこで聴いてもいいと思うの。
(CCCDは)例えば「ライブハウス、コンサートにはこういう格好で、必ず革靴で来てください」みたいなことに近いような感じがするのね、おれは。
ロックンロールは。
誰だっていいよっていうさ、お金ない人だってある人だって関係ないっていうさ。
それが、ロックンロールだと思ってるから。
そのね、なんか聴く側にものすごい規制を与える(CCCDやそれを導入するレコード会社の)その態度がいちばんイヤだ。
もうそこだけ。

CDすごい高いしさ。アルバム2,800円とかってさ、中1とかでさ、お小遣い2,000円とか3,000円とかでさ。
おれは、コピーしてでも聴いて感動したらいいと思う。
お金ある人だけがいい音楽を家で楽しめて。金ない人は絶対に聴けないというか。そういう状況になるくらいなら、コピーでも何でもいいわ。

聴いてそこに感動があって、その「感動」ということ自体が、聴き手とおれの唯一のコミュニケーションであって。
聴き手がいくらおれに印税を払ってくれたかっていうのは、全くコミュニケートとしては関係ないの。
「コミュニケーションしたいからロックンロールしてる」っていうことも絶対あるから。個人的にはね。
だからそこをレコード会社の規制によってコントロールされるのは、もうまっぴらっていう感じはものすごいある。
人間が生きてて生活の中で楽しいと思う要素っていっぱいあるじゃん。
それをなんか、企業が儲かんないとかいうことで規制されんのが、やだ。

CCCDのことにしても、みんな、ミュージシャンがそれに対して発言してもいいだろうし、いい・悪いはこの際ないと思うんだ。
「自分がどういう生き方したいか」とか、「自分は何を支持してやっていきたいか」だとか、単純にそれだけの問題だと思うんだよね。


(注)斜体部分は、転載、複製、翻訳などすべて自由に行って良いという、splash!の遠藤 敏文さんによる曽我部恵一氏のインタビューより、津田大介さんが抜粋したものを、更に僕が抜粋したものです。(元のサイトは2004/04時点では既に削除されています)





これまではCCCDに対する世の中の状況を、僕の視点から見えた範囲で書いてみました。
そしたら次は、「んじゃあおまえ自身はどうなんだ」と。
当然そうなりますよね。
最後に、僕の、CCCDに対するスタンスを、書いておきたいと思います。

基本的にCCCDに対しては反対を表明いたします。
理由はこれまでに述べてきたとおり、CCCDというメディアは著作権問題に対する根本的な問題解決に至っていないばかりか、音質は良くなることはありえずむしろ劣化し、専用の再生機器がなく、更にCDプレーヤーへの負担が増加してしまうためです。
更に、地道に発展してきた、「音楽がより身近になっていく生活」に対してマイナスとなる要素しか(現在のところ)持っていません。
CCCDになってアーティストが護られるようになった、とは到底思えません。
また、CCCDを世に送り出した人達は、音楽に対する考え方が本末転倒になっているとしか思えません。


まず、どういう経緯でそのアーティストはCCCDとしてアルバムを出さざるを得なかったかを考えることにします。なぜCD-EXTRAとしてでも回避できなかったか、等。
(アーティスト側の、「良質の音楽を届ける」という姿勢の問題)

アーティストが、CCCDに対する考え方を公表している場合、その意見がCCCDに対して賛成であろうと反対であろうと、そのアーティストに対しては敬意を表します。
(アーティストの、著作権に対する考え方の問題)

音質の劣化はない、あるいは音質に対して自信を持っている、とどこかしらでそのアーティストが公表しているならば僕はそれを信じます。
そしてCCCDであれ、購入することにします。
あるいは、本人としてはCCCDで出したくはなかったが、政治的理由でCCCDとしてださざるを得なかった場合。
この場合、自分のCDプレーヤーの劣化については、僕が面倒をみます。
更に、iPodでは聴けないかもしれない(僕の音楽生活に支障を来すかもしれない)というリスクも僕が背負って購入したということを、アーティストは理解してください。
(僕の、音楽という文化を信頼したいという姿勢)

もし僕が自分で聴いてみて、僕ですら「音が悪いなあ」と思ってしまったら、もう二度とそのアーティストのアルバムは買いません。
そのアーティストは、僕にアルバムを買ってもらう資格も信用もないという判断です。
(アーティストの、音楽に対する取り組み方の問題)


CCCDで音楽を頒布することになるアーティストの皆さん、
貴方がCCCDを経由して、音楽を発信し、その結果世界に何を望んでいるのか、是非我々に聞かせてください。

もし仮に、貴方の作った音楽に僕が感動したとして、友人のためにそれをコピーして渡した(貸した)とします。
この僕の行為は違法に相当するのでしょう。
(僕がコピーを持っていて、原盤を貸したらそれで違法ですらなくなりますが。)
しかし、友人がその音楽を気に入ってくれて、その後、貴方の次作を彼が自分の金銭でもって購入したとしたらどうでしょう。

そんな風にして、貴方の音楽が世に広まっていったとしたら、どうでしょう?
憤懣やるかたないと思いますか?

少なくとも僕はガッツポーズをするでしょう。
そうすることがこのサイトの(つまり僕の)存在理由の一つでもありますし、違法であれ、僕のため、音楽のため、自分の好きなアーティストのためになっていくと信じています。


最後に、本論の冒頭に書いた「対価」というコトバについて。
冒頭では「対価」という言葉を、CDの売値という意味で使用しました。
われわれリスナーが、アーティストのアルバムを購入する場合、お店では、売値に相当する金額を支払います。
しかし本来、世の中の仕組み上、この「売値」=「対価」ではないのです。
アーティストは、作品を売って得られた印税だけが、「報酬としての対価」だと、思ってはいけないのです。
アーティストがアルバムを世に出して得られる「対価」には、報酬だけでなく、貴方(と貴方の音楽)に対するわれわれの信頼や信用、それから音楽という世界、さらには世の中に対する人と人との繋がりに対して投じられた石(意思)の波紋を含んでいたりもするわけです。
それらをひっくるめてこそ、「対価」でしょう。

CCCDが存在するということはその大事な「対価」を奪うことに他ならない、と思う次第です。

さて..
これで、僕はやっと、ボールを投げることができました。
長々と読んでいただいてありがとうございました。


■参考にさせていただいたサイト一覧
C堂 CCCD特集
ミュージックマシーン 深沼元昭氏インタビュー
ミュージックマシーン 佐藤剛氏インタビュー
音楽配信メモ 2004/04/30分の過去ログ
FIVE-D 佐藤剛プロデューサーからのメッセージ







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